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Channel: KANTO's パン焼き人は荒です(^^♪
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雪の村にて

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今朝方降り出した雪は午後になって雨に変わった。
積雪15センチほどと予報されていたが、
実際そのくらいはありそうだ。

もう何度も書いているが、
雪が降ると私は何となく嬉しくなる。
豪雪地帯の方々や雪下ろしに苦労されている皆さんには噴飯ものだろうが、
これは血が騒ぐという奴だろう。

と言っても、
私が北海道に居たのはほんの一年半ほどだから、
北海道の雪は二度しか見ていない。
それも学齢前のことだから、
厳しいほどの北海道の雪と言えば、
貰い湯に行った帰りに、
パンと振った手ぬぐいがそのまま凍ったのに驚いた思い出しか無い。

今はK市となっているが、
K村はオホーツク海を見ながら走る鉄道の駅から、
小さな蒸気機関車に引かれた軽便鉄道で十キロほど内陸に入った辺りにあった。
オホーツクの浜辺は北海道の北の外れの原生花園であり、
今は浜小清水という駅名のようだが、
当時は「古樋」だった。
夏など、
この浜で水浴びをしていると、
海面にしばしばアザラシが顔を出した。

軽便鉄道は今は無い。
K村は松などの原木の集積地であり、
夏は筏にして製材所まで鉄砲水とともに流したし、
冬は四頭立ての大型の馬橇がこの仕事をこなした。
製材された材木を本線に乗せるために敷設されたのがこの軽便鉄道だったが、
間もなくトラック便が替り、
本格的にバスが網走や斜里へ通じるようになって廃線になった。

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わずか一年半の北海道での生活だったわけで、
敗戦の翌年の師走には東京へ戻っている。
だから、
軽便鉄道が廃線になった頃には、
私は東京の中学生だったわけである。

わずか一年半の北海道での生活だったが、
幼い日の思い出の半分以上はこのK村での疎開生活の中に詰まっている気がする。
わが家の場合は伯父を頼っての縁故疎開だったから、
学校単位、地域単位で行われた学童疎開の経験とは少しく趣は違うだろう。
昭和二十年の三月の九日に東京が焼けた後、
間もなく東京をたち、
K村には確か五月の上旬にたどり着いたと記憶している。
梅と桃と桜と菫と菜の花と、
ありとある花たちがいっせいに開いていて私たちを迎えてくれたのだから。

書こうと思ったのは、
冬場の馬橇のことである。

K村の家並みは東西に延びる街道に沿って細長く広がっていた。
南にこの街道に沿った道がもう一つあって、
民家や農家はその辺りまでにあった。
母と次姉と私と妹の四人は、
伯父が探してくれたSさんの納屋に半年ほど暮らした。
この納屋は五坪ほどの板の間と奥の八畳の部屋とからなっていた。

この納屋は南の道路と街道を結ぶ道の交差する所にあった。
真冬から三月初め頃まではどんな馬橇も難なく製材所へ曲がることが出来た。
橇と言っても原木を乗せるものは今のトレーラー・トラックと同様で、
前と後ろに橇があるのだ。

三月も中旬になると路面の雪はめっきり少なくなったから、
ここで大抵の橇は往生していっきに曲がることが出来なくなった。
その馬たちを、
馬方は容赦なく手綱で打つのだ。
そうしても橇はほんの一メートルとは進まない。
馬たちは真っ白な息を鼻や口から盛大に吐きながら嘶くのだ。

私は馬のつぶらな目に涙が光るのを見た。
そうだ馬は泣くのだ。
自らの不甲斐なさを泣くものらしい。

私はせっせと路地や庭の雪をシャベルでかき集め、
ミカン箱に詰めて往来へ運んだ。
往来にはあちこちに水溜りが出来ていて、
朝の内は凍っていたから何とか通過出来たのが、
陽がさして来るともういけなかった。

ミカン箱の雪一杯分がどれほど馬たちのためになったか、
四月から一年生になろうとしていた私にわかる筈もなかった。
「あんた何しているの」
と三年生の姉が言った。
事情を話したら、
「馬鹿ねぇ」
と笑われた。
それ以来、
あいつはいつも私の目の上の瘤となった。

20150130



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