以下は創作ですが、読者を期待して書いておりません。
もし図らずも読んでしまった方がおられましたら、
どうぞすべてお忘れくださいますよう。
夕方になると決まりのように細かい雪がさらさらと降る。
朝方まで降り続いて日中に剥げた化粧を改め、
朝の乏しい光の中で一つ小さく欠伸をする。
東山温泉は、
そんな雪に埋もれて、
ひっそりと息づいていた。
「この辺りの初詣と言ったら、どこへ行くのです」
膳を運んで来た宿の女将に聞いてみた。
「この上に、村社がありますけど。皆さん、それぞれの所がおありのようですよ」
女将は左手を斜めに上げてみせた。
「この上」とは「山の方」ということだろうとはすぐにわかった。
しかし、
ソンシャが村社だとはすぐには気づかなかった。
「お出かけになりますか。この前の道を上に行くと、石段がありますから。すぐわかります」
「そう。じゃ後で行ってみることにしますか」
私はあいまいなこたえをして膳の前に座った。
私が聞いてみたのは、
会津中の人たちが初詣するところという意味の積りだったが、
「この辺りの」と聞いたのがいけなかったのだろう。
旅館の朝餉と言ったら、
これはもう判でついたようなものだ。
ご飯とみそ汁の他に海苔と卵、納豆、香の物、ほんの申し訳のつくだ煮。
毎朝違うのはデザートだけのようだ。
この中で納豆だけは服薬の関係で食べるわけには行かない。
それでも納豆は毎朝食膳に乗った。
こうして、
変わり映えしない朝餉が二日でも三日でも続いたが、
元来食通とは程遠い私にとってはそれで十分だった。
しかし、
私はその村社へは行かなかった。
車で行くほどの距離でもなさそうだし、
かと言って、
凍結した雪道を歩くことを考えるとやはり足はそちらには向かない。
NHKと福島テレビしか映らないテレビにも飽き、
昼近くになって車で町中へ繰り出した。
別段、どこと行って当てがあるわけではないから、
道筋にある案内板を見ながらのドライブということになる。
会津と言えば白虎隊と鶴ヶ城くらいしか思い浮かばない。
白虎隊の自決したという飯盛山の登山のための石段は、
これまたすっぽりと雪に覆われていた。
脇に登山のためのエスカレーターがあったが、
今また登りつめてみてもおそらく何の感懐も湧きはしないだろう。
そう思って登らなかった。
鶴ヶ城には大勢の人がこぞっていて、
この辺りの初詣先はもしかしたらこの城なのかもしれないと、
そんな気がした。
逆賊となった会津と松平容保さんを秘かに敬愛する士たちの末裔、
そんな図式を描くのは私だけだろう。
雪道は年末から続く参詣者たちに、
すっかり踏み固められていた。
会津には伯父の家があると聞いていた。
いや、
戦時疎開で北海道に渡る道すがら、
会津という所へ寄って伯父の家に一泊したというおぼろげな記憶もある。
やさしいお姉さんに手を引かれて、
駅から歩いたのをうっすらと思い出すことがある。
あるいはあれは、
釧路の春まだ浅い雪道でのことだったろうか。
今は伯父の息子から孫の世代になっているのか、
この家系のことはしばらく前から不明になっている。
次兄にでも聞けばなにがしかの消息はつかめるかもしれないが、
そうした機会もないままにもうふた昔にもなっている。
そんな話をしたら、
「そうすると、お宅のご先祖は屯田兵で北海道へ渡ったのかしら」
とM子が言った。
「うん、家の本拠は南部だったというから、まあその口だろう。いずれ東北の列藩の一つだから、維新後には薩長にいい思いはさせて貰えなかったろうね。それで敢て言うのかもしれないけど、親父は『屯田兵ではなかった』と言っていたよ。『南部の殿さまの剣道の指南をしていた』なんてね」
「隙があったらいつでも打ち込んでみよ」と祖父は私の父に言っていたそうだ。
それで、縁側にいるところを竹刀でポカンとやったら、「気合も掛けずに打ち込んだのは間違いだ」と叱られたという話もある。
南部から会津へ入ったのが父の腹違いの次兄の家系であり、
また違う腹から生まれた上の長兄の家系が苫小牧へ入った。
父の家系はもっと奥の釧路へ入ったということになる。
「男のご兄弟は全部違うお母さんから生まれたわけね」
「うん。一番上は伯母さんで、この人と長男さんが同じ腹で、後はそれぞれ違うんだなぁ」
そんな話は以前にもしていた筈である。
そんな話にM子が改めて関心を示したのは、
たまたまここが伯父の居た会津の地という思いがあるからだろう。
「まあね、昔はそんなことがごく普通にあったんだわね。若いのに死んでしまう奥さんも多かったし、子どももよく死んだのよね」
「それですぐに後妻を貰ったってことかねぇ」
父その人は、
自分の出自についてあまり多くのことは話さなかったように思う。
こうしたことは、
長兄から聞いた話の切れ切れから知り得たことどもである。
鶴ヶ城を後にして車へ戻ると、
さてまたどこへ行ったものかと顔を見合わせるばかりである。
別に観光名所をたどる積りで会津へ来たわけでもない。
ただひたすら温泉に浸かり骨を伸ばす、
その積りで出て来たから、
別に何の計画も無い。
宿は昼餉を出さないから、
町中へ出て何か旨いもんでも食おうという、
ただそれだけのことで宿を出て来ただけなのだから。
宿で貰ったパンフに会津塗りの民芸品店と絵ろうそくの店というのがあった。
そう言ったものを見て歩くのは私もM子も嫌いではない。
それほど遠くではない、
と言うより、
会津若松の市街地の規模そのものがそれほど大きいわけではないので、
車で行く分には、
どこへ行くのにもそれほどの時間がかからないということである。
三が日の内のことであるし、
もしかしたら店は閉まっているかもしれないと思ったが、
どうやら細々とながら店を開いていた。
店の前に車を停めると、
店主らしい人が硝子戸を開けて、
「お車は、そこへ置いて構いませんから。どうぞ」
などと言う。
私とM子は思わず顔を見合わせた。
こちらの必要をみてとってすかさず「どうぞ」などと言う。
こういう所ではただ見て帰るというわけには行かないものだ。
案の定、
店に入った私たち二人に、
その店主らしい人と奥方とおぼしき女性がそれぞれに張り付いた。
頼みもしないのに、
私の目線をたどってそれぞれの商品の説明をする。
かつて実家の正月に出て来たような五段の重箱など、
十五万円とか二十万円とかの値札が付いている。
「これは箔押しではないのでね、一つずつの模様や絵柄を手描きしています」
なるほどとは思う。
でもねぇ、
そうそう僕にくっ付いて来ても、
買う積りはこれから先ありませんからねと胸の裡で呟いた。
ぐるりと店内を一回りすると、
出口の辺りに店主夫人が頑張っていた。
その人の顔が、
たとえ小さなもの一つでも買わせずに帰してなるものかと思っている顔に見えた。
こうした土産物を売る店も、
消費税この方売り上げの落ち込みに苦労されているのだろう。
そう思った私の顔を見て取ったのだろう。
店主夫人がにっと微かに笑顔を作ったのである。
考えることは同じだったようである。
何も買わずに帰ったからと言って、
店主とその夫人が鬼に豹変することはなかろう。
しかし、
それではこちらの気持ちが芳しくなくなる。
旅の思い出が辛くなる。
箸の二善くらいならと思ったが、
その値段というのが結構なものである。
そうした客の心を読んでいるように思える。
赤と濃紺の夫婦箸には螺鈿が施され、
塗りもそう悪くは無い。
しかしこの歳になって新しい塗り箸というのも何となく気恥ずかしい。
普段使いの箸は白柘植のもので、
それをもう六、七年は使っている。
箸には忘れられない思い出がある。
まだ三十までには間のある歳の頃のことである。
木賃アパートの私の部屋には、
箸もスプーンも、フォークも無かった。
元々部屋では食事をしない積りでいて、
朝食のトースト以外はすべて外食で済ませていたからそれでこと足りた。
たまにラーメンでも買って来る時は、
コンビニで割り箸を貰って来ることを忘れなかった。
箸がいると思ったのは、
根津の権現さんの祭があってM子と観に行った時のことである。
箸は権現さんの境内に並んだ屋台の小店にあった。
そこで塗り箸を買い、
三丁目の荒物屋で小さな手鍋と包丁、まな板、茶碗を買った。
「これで何とか暮らせるかなぁ」
店を出る時M子にそう言ったら、
M子の目にふっと涙が溢れた。
「根津権現で箸を買ったの、覚えているか」
M子はふっと笑ったようである。
「そりゃ忘れないわよ。やっとお部屋に入る許しがもらえたと思ったも」
「ハハハ、あのころは四畳半一間だった」
「トイレも共同だったけど、ガスと水道と、小さな流しが付いていたのよね」
石神井公園の近くへ移ったのは、それから間もなくのことである。
2015.1.7