庭のシンボルだったくぬぎの木が伐り倒されてから三週間になる
倒された木よりは二回りほども大きな空間が残された
鳥たちや小さな獣たちはそれぞれに奥まった森の木々に退いたが
人の心はまだその木にとどまり続けようとしている
しかし
その新しい空間こそが木々や草々に僥倖をもたらしたに違いない
辛夷が咲き
三椏の花がほころび始めた
ハナダイコンが咲き
カタクリにも蕾がつき始めた
イワウチワは小さな丸いつぼみを精いっぱいもたげて
「もうすぐ」とつぶやいている
***
春はどこから来るのかと童謡にある
もはや旧い作家となってしまった横光利一は
『春は馬車に乗って』やって来たと書いた
死の床にある妻の看病に疲れた男は
ついにこの先は妻の看病だけをしようと決意する
長い冬がやがて春になろうとする頃
岬をめぐって赤いスィトピーの花束が届けられる
妻はやせ細った両の腕に花束を抱きしめて目をつぶる
男がどうなったかはわからない
ほんの15分もあれば読み切れるほどの掌編小説である
確か新潮文庫にあった筈だが
もうきっと絶版になっているかもしれない
しかし「青空文庫」がある
丹念に文字を拾ってくれていることに感謝している